2024年8月公開を目指してクラウドファンディングに挑戦します。
READYFORプロジェクトページ:
https://readyfor.jp/projects/PR45_STAY_BANK_SANRIKU
|第一目標金額:1000万円
|第二目標金額:1600万円
|支援募集期間:4月26日(金)10時〜7月25日(木)23時
|プロジェクト主体:PR45 新藤典子
支援方法-1|READYFORに参加
QRコードから専用サイトでお手続きください。
ご支援額に応じた返礼品をご用意しています。
支援方法-2|銀行口座にお振込
東北銀行 大船渡支店(普)5045277
PR45 新藤典子
支援方法-3| STAY BANK CAFE
盛木町朝市屋根付き⑧ 毎月0と5の日が出店日
STAY BANK SANRIKU ⇔ TARO
2拠点型震災痕跡史料館 大船渡⇔田老
OVER VIEW
2023年の冬から春先にかけて。東日本大震災の津波で被災した宮城県・岩手県沿岸部での広域防災観光を支える小規模複合施設を生み出そうとしています。STAY BANK SANRIKUは三陸沿岸に建つ築100年の銀行を活用した、泊まれる震災史料館です。この施設は、調理師免許を持つ災害復旧カメラマンが考えた、あと100km先を見に行くための活動拠点です。
「三陸」は八戸~石巻までの広域を指す地名であると共に、大船渡市の一つの地名でもあります。一方、リアス海岸に代表される三陸の多様な景観と津波被害は、一つの地名では到底語り尽くすことができません。そこで、100kmの隔たりを持って「大船渡市の大正時代の歴史的建造物」と、「宮古市田老防潮堤の遺構保存部」の2か所を経由することで全体像の理解に繋がると考えました。その実現のため現在、自治体や県をまたいで歴史的建造物、土木遺産、痕跡史料群などを保存する2拠点型震災痕跡史料館の整備を進めています。
3つのBANK
STAY BANK SANRIKU
大船渡拠点では史料館と飲食店と簡易宿泊の機能を持ち、情報と食事と睡眠を提供します。史料館に展示するのは、「津波痕跡史料」=位置情報を持つ土木構造物や公共施設の津波痕跡の断片です。
※BANK=銀行
STAY BANK TARO
田老拠点では100km北にある津波防災の町の生きた土木遺産を紹介します。
※BANK=円弧状の堤防・累積したもの
311.PIANO BANK
三陸沿岸に現地保存している「被災ピアノ」の情報と現物を管理します。
※BANK=ピアノ鍵盤の配列・保存施設
およそ30年の周期で津波が襲来する三陸沿岸の多様な津波被害から復興した街を旅し、日本一広大な三陸ジオパークの景観を楽しむ人にぜひご活用頂きたい、国道45号の「情報補給所」を目指しています。
史料の定義
震災痕跡史料の分類
大船渡拠点
津波痕跡史料=津波浸水域の災害復旧工事に伴い廃棄決定した公共物の解体断片が被災した現地に一群で存在する様。
例:津波浸水で切替えた国道片・破壊された防潮堤の構造体・全壊して解体された公共施設の躯体等
被災ピアノ=津波で全壊した学校の解体現場から搬出した、代々校歌演奏に使われてきた式典⽤のグランドピアノ。
田老拠点
田老1号陸閘扉体=3.11で「田老防潮堤」と避難路1号の交差部で海と陸をたった1枚で分けた陸閘の扉体。消防団の「15分ルール」の発祥。嵩上で避難路が消滅したことにより撤去されたが、官民で譲渡手続中。
田老昭和土木遺産=昭和8年の三陸大津波から今年で90年。昭和9年に岩手県で最初に建てられた防潮堤の一つ。田老防潮堤(高さ10m・全長1350m)と一体で計画された、放射線状で碁盤の目の避難路は、防災都市の手本とされる。避難路は市の嵩上と県の土木復旧の中で大部分消滅したが、10個の現地痕跡から土木遺産の全体像を辿る仕組みを整備中。
震災痕跡史料群の民間保存
国が自治体で1つと定めた「震災遺構」、工事区域に該当しない海際、民間の被災した土地建物などを除いては、津波の痕跡を見ることが少なくなりました。震災の風化が指摘される一方で、日本各地で激甚災害が多発している今、日常と異なる場所でも防災感覚が必要です。
PR45はこれまで、津波で流された「国道45号の災害復旧」をテーマに記録を開始し、12年後に海岸線が防潮堤で閉じられる瞬間までを広域で記録しました。その過程で多くの公共施設解体の現場に⽴ち、もしその時点で見過ごせば「廃棄物」として処分される「津波痕跡史料」を活動地ごとに保存してきました。津波痕跡史料の客観性と重要性
災害復旧の現場では通常、本復旧に先駆けて、破壊された既存部の解体撤去を行い、元の形状に復旧します。このとき、津波の破壊力を示す痕跡の大部分が「廃棄物」となり、分別処分されます。これらの残骸は公共物である以上、水準点・公共基準点から得られる緯度・経度・高さのデータを基に計画されています。このことから「津波痕跡史料」は、破壊された位置と高さにおける被害状況を現す物体なのであり、集合体で収集することにより、災害の規模を小さな断片で現すことができると考えています。また逆に言えば、リアス海岸特有の多様な被害状況を現すには、統一のテーマで収集した「広域史料群」が必要です。
分散保存から集約保存への必要性
活動当初、全ての史料が公共物であることから、できるだけ公的な場所と体制で遺すことを目指して、行政や教育委員会と協議を重ねてきました。しかしながら、大型の史料であるほど行政内の維持管理が難しく、また管理者の異動時に価値認識が引き継がれずに廃棄決定されたり、公民館への引き渡し後に売却換金されたり、民間委託で保管中に私的流用されたケースなどもあり、PR45自らが一元管理する必要性を強く感じていました。
大船渡の「震災痕跡史料館」には、津波浸水で切替えて死道となった国道、破壊された防潮堤、解体された公共施設などの50点ほどの断片、被災ピアノ6台(5台損傷状態・1台修復済)を格納します。PR45の活動と企画者について
3.11から今まで
震災時は東京目黒で震度5弱を経験しました。その後2ヶ月半、千葉・茨城の液状化地帯の損害鑑定業務に派遣され、福島との県境付近で全身の皮膚に出た発疹と水ぶくれに疑問を抱えたまま、災害ボランティアとして三陸沿岸に向かい、7月に企画と記録を一対で行う独自の活動を立ち上げました。震災から10年目にして短期移住した原発所在地・大熊町で放射線測定の職に就き、自ら捌いた魚を「安全でおいしい」と人に勧めるのか自分を試すために調理師免許を取得していたことが、痕跡の現地に行く防災ツーリズムの構想へと広がりを持たせたと感じています。
場所との出会い
震災前の私は、東京で廃墟化した歴史的建造物の使い⽅を検証する企画業「領域探査デザイン」を主宰し、関東⼤震災後の復興建築「九段下ビル」の最期を解体終了まで⾒届けました。また、太平洋戦争で病院船となり戦後に引き上げ船となった「氷川丸」の船上から戦争を伝える国の事業に企画者として参加しました。この経験は、震災後に私を三陸沿岸へ向かわせ、移住を決意させ、今回の私設資料館の⽴ち上げへと突き動かすこととなりました。
その動機はただ一つ、将来の企画者に「現地に現物で史料を届ける使命」でけです。私にとって写真や映像は作品ではなく、現物が失われた時の「補完措置」で、「経緯を現す⼿段」だと捉えています。長距離を移動して「史料」を遺すことを繰り返して10年を経たある日、「次は、⼈から⼈へ伝える段階に来た」と強く感じる瞬間があったのでした。それが、⼤船渡で解体危機となっていた古い銀⾏との出遭いでした。
被災ピアノを守る
行政主体の博物館とは一線を画したい。被災ピアノについては、過去に県内外の博物館に打診し、寄贈や企画展を模索した時期もありました。しかし、公共の博物館の中に入れるためには、分解して潮を除去し燻蒸処理しなければならない制約から、どうしても決断することができませんでした。潮は汚いものなんかじゃない。それに壊れた音という資料価値が失われてしまう。そのままの音を「被災ピアノ」には潮に捲かれたままで、後世に伝えるべき役割があるのではないか。その価値を複数形の「群」として守るために、ある程度の大きさを持つ民間の史料館設立が必要だったのです。
お問い合わせ
現在、2023年冬の開業に向けて準備中です。
STAY BANK SANRIKU
(ステイバンク三陸)
「2拠点型震災痕跡史料館」
史料館+飲食店+簡易宿泊所岩手県大船渡市盛町木町9-13朝ごはん 5:00-8:00
資料館 11:00-16:00
簡易宿泊 16:00-翌10:0008087237454
© 2023 PR45